連載「”発達する”人事」第9回(パワハラのない会社)執筆者:小島健一

著者等

小島 健一

出版・掲載

産労総合研究所

業務分野

人事労務・産業保健相談一般

詳細情報

連載「“発達する”人事 ~ 発達障害の傾向のある人の雇用にかかわる留意点と実務」

雑誌『労務事情』(産労総合研究所)において2020年4月から1年間にわたり執筆して参りました連載「“発達する”人事~発達障害の傾向のある人の雇用にかかわる留意点と実務」(全12回)を毎週末を目安に1回ずつ掲載してゆきます。今回は連載第9回になります。

第9回 パワハラのない会社

 ある朝、Aは、いつもの通勤の道すがら、スクランブル交差点を渡りながら見上げたビルの電光掲示板に流れるニュースに目を止めた。「昨日、ILO総会で、職場での暴力とハラスメントを全面的に禁止する国際条約が圧倒的多数の賛成で採択されました。わが国がこの条約を批准するためには、パワハラを制裁付きで禁止する新たな法改正が必要になります」

 Aは、不動産販売をメインにする中堅企業で、10数人の部下を束ね、会社でナンバーワンの部門成績をたたき出し続ける営業管理職だ。部下に成果を出させるために熱血指導する自分のマネジメント・スタイルに、プライドを持っている。部下に声を荒げ、ノルマ達成に厳しく追い込みをかけたことも、たびたびある。Aは、このニュースに心がざわついた。自分の仕事がじゃまされるような気がして、不快だった。

 いつの間にか信号が変わっていた。けたたましいブレーキ音でわれに返ると、目の前に車が飛び込んできた。それからどれくらい眠ったか、わからない。気がつくと、病院のベッドの上だった。母親と妻は、Aの奇跡的な生還に手を取り合って喜んでいた。

 Aは、リハビリも早々に退院し、仕事に復帰した。以前と変わらない職場の風景。上司も部下も同じ顔ぶれ。だが、強烈な違和感がある。管理職たちは、部下に、丁寧な言葉遣いで話しかけ、にこやかに指導している。だれ一人、大声を出す者はいない。「この会社は、自分ほどではないにしても、世間のパワハラ批判などものともしない、『モーレツ主義』の社風ではなかったか?」

 Aが入院中に中途入社したという管理職が挨拶にやって来て、小声でささやいた。「うちの社員は、全員、“パワハラ防止セルフマネジメント・システム”に参加しているからね。脳にウェアラブル端末が埋め込まれ、あらゆる言動がAIで監視されている。パワハラ言動と判定されると、即座に頭痛に見舞われるようになっている」というのである。この新参管理職は、まだまだこのシステムに慣れず、たびたび頭痛や耳鳴りに悩まされている、とおどけて見せた。Aは驚愕した。「俺の頭にそんなものが入っている? そんなはずはないぞ!」

 Aは、いつものように部下を呼びつけ、できの悪い報告書のことを頭ごなしに叱ってみた。皆が一斉にこちらを見て、目を丸くした。Aはばつが悪かったが、頭は痛くもなんともない。「よかった。自分の脳には埋め込まれていない」

 インターネットで調べると、顛末が分かった。数年前の大手広告代理店の新人女性社員の自殺が発端だった。社会問題になったこの事件では、長時間労働もさることながら、上司のパワハラ言動が繰り返されて彼女の精神を蝕んだことが、亡くなった彼女が残したツイッターから明らかになった。その事件のことは、Aもよく覚えている。「お嬢さまが体育会ノリの会社に入社したゆえの悲劇だ。そんなやわな人間は自分の部下には要らない」と思ったものである。さんざん騒がれながらも、結局、業務として必要な指導や教育との線引きが難しいという理由で経営者団体が猛反対し、パワハラを直接禁止する法律はできなかったはずだ。

 ところが、法規制とはまったく異なる力学が働き、事態は急展開した。ここからは、Aがまったく知らないストーリーだった。新人女性社員の自殺事件の後、一部の大学生とその親たちが、“職場のパワハラ撲滅運動”を始めた。運動はまたたく間にSNSで拡散され、ミレニアム世代の社会人が呼応した。上場企業から地方の優良企業まで、職場で日夜起きているパワハラが連日、これでもかと暴露され、たびたび炎上した。「くるみん」から「健康経営優良法人」まで、就活生の企業イメージを高める認定を受けている企業も例外ではなかった。採用難に苦しむ経営者たちは、就活生から「働きやすい会社」として選ばれるよう、自社を差別化する決定的な何かを求めていた。

 このころ、急激に進化したAIは、会話の文脈や声のトーンから、業務の適正な範囲の指導・教育と人権侵害になるパワハラ言動のいずれであるかを判定できるようになった。急成長するヘルステック市場でしのぎを削っていた、あるベンチャー企業が、このAIとブレイン・マシン・インターフェース技術を組み合わせて、“パワハラ防止セルフマネジメント・システム”を開発し、まずは自社の従業員に使用させることで“NOパワハラ企業”をアピールした。このもくろみは大当たりし、またたく間に多くの企業がこのシステムを採用することになった。新卒市場はもちろん、株式市場もこれを歓迎した。

 「こんなことがよくも許されたな…」、Aはつぶやいたが、そのからくりがわかってきた。あくまでも、各社員が自発的にシステムに参加する建前になっている。パワハラ言動の判定や頭痛のフィードバックも、会社には知られないようになっている。このシステムに競って参加したのは、経営者側だけではなかった。

 Aは、明らかにこのシステムに自分は参加していないことを自覚している。しかし、それをだれかに気づかれてはまずいと直感し、自分にも端末が埋め込まれているふりをして仕事をした。

 

  • エピソード①

 Aは、素行の悪い部下の将来を憂い、時折、顔をしかめて頭痛に見舞われたふりをしながら、厳しい口調で注意を与える。システムではパワハラ言動と判定されるような言動を含んでいたが、Aは、顔をしかめてパワハラ言動と判定されたふりをしているうちに、自分の言動を客観的にみて、調節するようになっていった。Aは、粘り強く部下との対話を続け、やがて、その思いは部下に届き、部下は成長を誓うことになる。

 

  • エピソード②

 Aは、自分の上司から、Aの仕事のやり方を否定される。上司の言動は穏やかな表現だったうえ、上司は涼しい表情のままだったので、システムではパワハラ言動と判定されなかったようだ。しかし、Aは、AIによれば業務の適正な範囲の言動と判定される場合であっても、受ける側の価値観や精神状態によっては、強いストレスを感じ、傷つくことがあることを実感する。

 

 Aは、パワハラに対する認識の相対性や、解決のために「対話」が欠かせないことを体感していく。

 そんなある日の帰宅途中、駅の階段で、頭ごなしに子どもを叱りつける母親の姿を前にしたAは、自分が頭痛を感じていることに気づいた。そんな自分におかしくなって、親子に声をかけたときだった。駆け込み乗車しようとする他人にぶつかられて、Aは階段から転落する。

 目が覚めると、Aは、また病院のベッドの上にいた。軽い脳震盪ですんだので、翌日出社すると、会社は、元のパワハラ職場に戻っていた。

 そんな会社でも、今般の法改正で会社が義務づけられたハラスメント・ホットラインの相談担当者を社内公募するという。Aは、応募のクリックを押した。

 【もちろん、このお話はフィクションです。発達障害かもしれない人に限らず、自分の言動を顧みる力、相手の受止め方を慮る力、さらに、自らの思いを伝え、相手の思いを受け止める「対話」の力は、どうしたら養われるでしょうか】

 

【初出:「労務事情」(産労総合研究所))2020年12月15日No.1417】

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