人事労務戦略としての健康経営【第3回】

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人事労務戦略としての「健康経営」(3)

 (初出:「ビジネスガイド」(日本法令)2017年5月号)

弁護士 小島健一

 ようやくの連載再開です。

 掲載をお休みしている間に様々な出来事がありましたので、今回は、私自身の内側からわき起こっている“もやもや感”をそのままに、「健康経営」について、あれこれ考えてみたいと思います。ぐるぐる回ることになりそうですが、宜しければお付き合いを。

 1 AIが「相棒」になる近未来

  改めて指摘するまでもなく、医療・ヘルスケア分野では、ICTは勿論、AI(人工知能)を活用することが、大いに期待されています。特に「職域」は、生体情報やライフログなどを含め、質量共に魅力的な「労働者」の健康情報の宝庫であり、しかも、その収集・活用のために、雇い主である企業がスポンサーや旗振り役となり得ます。「健康経営」がビジネス界から強い支持を受けている背景には、ひょっとすると、そのような思惑さえあるのかもしれません。

 ところで、去る1月の週末、ある財団が主催するヘルスリサーチのワークショップに参加しました。今回のテーマは「未来を変える~ネコ型ロボットと共生する時代~」。そう、ずばり、AIです。

 AIがどこまで進化を遂げるのか、筆者には見当もつきませんが、AIによっては代替できない「人間らしさ」とは何だろうか、あるいは、もしAIに「人間らしさ」を持たせることができるなら、何を組み込むだろうか、などと様々なバックグラウンドの方々と自由に議論しました。

 その結果、むしろ、強く意識するようになったのは、生身の肉体を持ち、感情に突き動かされる人間の不完全さ(=脆弱さ)への“愛着”でした。AIも、あえて、完璧でなくし、弱点を持たせれば、感情が芽生えるかもしれない、などとも考えました。

 実は、私の中にあったAIのイメージは、1980年代のアメリカのテレビドラマ「ナイトライダー」に登場するドリームカー「ナイト2000」の人工知能“K.I.T.T.”(愛称「キット」)です。主人公のマイケルが、ナイト2000を運転しながら(いざとなればキットが自律運転できるのですが、マイケルは運転が好きなようです。)、生真面目でユーモアもあるキットと軽口を言い合い、ナイト2000のハイテク機能を駆使して悪党たちとわたりあうのが(といっても、キットは人命尊重第一にプログラムされています。)、毎回のお楽しみでした。

 人間がAIに支配される未来を懸念する向きもありますが、私は、むしろ、AIが(パーマンのコピーロボットのように)自分の「分身」となり、時間と場所の制約を超えて活動できるようになるのではないか、AIが冷静な(時には、“修造”のように熱い)「話し相手」となり、自分の心は癒され、成長が促されるのではないか、さらに、AIが(ナイト2000のキットのように)頼りになる「相棒」となり、自分たちに出来ることは飛躍的に大きくなるのではないか、などと夢は広がり、わくわくしています。(大体、もしAIが原稿書きを手伝ってくれたなら、こんなに連載に穴を空けることはなかったし、それどころか、既に何冊も本が書けているでしょう…)

 いずれは、「1人に1台のAI」という時代がやってくるはずです。そのとき、あなたは「相棒」に、何を期待するでしょうか?

 発達障害の特性のために苦労している人も、そう遠くはない未来、AIのサポートによって、もっと生きやすくなるのではないか、などとも想像しています。例えば、アスペルガー症候群等の自閉症スペクトラム障害は、社会性やコミュニケーション、想像力に障害があることに特徴があると言われてきましたが、しばしば、視覚、聴覚、触覚等の感覚の偏り(過敏又は鈍麻)のために、定型発達の人にはうかがい知れない“世界”を知覚していることも指摘されています。高次元の知能・情動は、低次元の知覚・感覚によって規定されているでしょうから、直観的には、後者のほうにこそ発達障害の本質がありそうだと感じています。AIが、発達障害の特性を持つ人のために、場の空気を読み、遠回しな表現を解説してくれるだけでなく、知覚機能を補助して、苦痛を少しでも和らげることができたら、と切に願います。

 まさに、長井志江先生(大阪大学)、熊谷晋一郎先生(東京大学)らの研究グループが「認知ミラーリング」という情報処理技術を用いた発達障害者支援に取り組んでいます。同研究グループは、既に、「自閉スペクトラム症視覚体験シミュレータ」を開発し、自閉スペクトラム症の方の視覚世界(コントラスト強調や不鮮明化、無彩色化、砂嵐状のノイズ等)を定型発達者が体験できるようにしています。

2 職場に労働者の「相棒」はいるだろうか?

 (1)「なんでも相談」と「守秘義務遵守」の企業内相談室

 住友商事グループには「SCGカウンセリングセンター」という企業内相談室があります。相談件数は毎年増加しており、2015年度は947件、開設から11年間の累計で約5,700件に達したそうです。利用可能な役職員が約10,000名であるのに対して、過去10年余りの間に一度でも利用したことがある役職員が約2,000人にも及ぶというのですから、驚異的な利用実績です。

 SCGカウンセリングセンターのユニークなところは、「なんでも相談」と「守秘義務順守」の2つの基本方針を貫き通し、それを社内外に積極的にアピールしていることです。仕事や職場に関連すること(上司・同僚との人間関係、仕事の適性、パフォーマンス、キャリア、部下のマネジメント等)に限らず、個人的なことまで(家族内やプライベートの人間関係、育児や子どもの教育、自分や家族の健康・病気や介護、中には恋愛相談まで)、様々な資格を有する経験豊富なカウンセラーが相談に応じています。相談者の名前や相談内容は、上司や人事労務部門へ一切開示せず、相談者をサポートすることに徹しています。

 この2つの基本方針が周知・徹底されているので、社員は安心して本音を話し、考えを整理して、セフルマネジメントに活かすことができる、社内の事情に通じているカウンセラーから実践的なアドバイスとパワーをもらって、自分自身で解決に動くことになる、という寸法です。SCGカウンセリングセンターは、企業内にありながら、個人を“支えることに徹する”(つまり、介入しない)ことによって、経営や人事から信頼され、何よりも、社員の心の支えになり、その成長を促すことになっているのです。

 このようなSCGカウンセリングセンターは、企業外部のEAP(従業員支援プログラム)と企業内部のカウンセリング機能のハイブリッド(よいとこどり)と言えるかもしれませんが、その思想と実績には、「健康経営」により個人と組織の活性を高めるために鍵となる、以下の2つのポイントが示されており、企業の規模の大小にかかわらず、参考にすることができると思います。

 ◎「健康経営」によって個人と組織の活性を高めるポイント

   ①社員が、心身の健康にとどまらず、仕事、職場、家庭の「健康状態」にも配慮されること

   ②上司や人事につつぬけにならない人に本音で相談できること

 (2)「健康経営」のキーパーソンは産業看護職(保健師、看護師)

 前項に挙げた2つのポイントを同時に満たし得る存在として、筆者は、企業が、産業看護職すなわち保健師や看護師を雇って活用することに、もっと積極的に取り組むべきだと思っています。

 月に1回、それも数時間来社するだけの嘱託産業医に対し、全ての社員に目を行き届かせ、誰からも気軽に相談される存在になることまで期待するのは、無茶というものです。人事部などで衛生管理者の資格を持つ社員が、産業医の目となり耳となり、産業医と社員の間に入ってそのような役割を果たすことが期待されますが、問題は、2つ目のポイントです。

 衛生管理者が、悩みを相談した社員から、「ここだけの話にしてください。」「会社には報告しないでください。」と頼まれたとき、果たしてそれに応じて良いのか、会社の安全配慮義務の観点から、自分だけで抱え込んでは不味いのではないかと、思い悩むことがあると思います。また、悩みを抱えた社員も、衛生管理者は上司から問い詰められれば洗いざらい報告してしまうのではないか、と心配は拭えないかもしれません。(法律上、衛生管理者はその職務全般についてまで守秘義務を課せられてはいません。もっとも、社内規程において衛生管理者の守秘義務を定めることも、一考に値します。)

 その点、保健師や看護師は、法律により、「正当な理由がなく」(すなわち、法令に基づく場合、本人の同意がある場合、或いは、生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合でない限り)「その業務上知り得た人の秘密を漏らしてはならない」という、違反には刑事罰の制裁もあり得る、厳しい守秘義務を課されています(保健師助産師看護師法42条の2、44条の3)。その職業倫理上も、「科学的判断に基づき専門職として独立的な立場で誠実に業務を進める」ことが、要請されています(「産業保健専門職の倫理指針」日本産業衛生学会、平成12年4月25日)。

 したがって、保健師や看護師は、労働者が告白した悩みについて、本人が会社への開示に同意していないという理由により、会社に報告せずに留めることをやり易い立場にあります。一方、いざとなれば(生命を守るために緊急の必要があるような場合には)、専門職としての客観的判断に基づき(勿論、必要に応じて、産業医のより医学的な判断を仰ぎ)、本人の意思にかかわらず会社に報告してその対処を求めることもできるのです。

 それでは、前項に挙げた1つ目のポイントについて、保健師や看護師は、その期待に応えられるでしょうか。

 先日、「さんぽ会」(産業保健研究会http://sanpokai.umin.jp/)の月例会において、ストレスチェック初年度を終えての振り返りをした際、産業医や産業看護職(保健師、看護師)から、次のような戸惑いの声がいくつも上がりました。すなわち、高ストレスと判定された社員からの申し出により実施する「医師による面接指導」やその前段階の「補助的面談」(医師に限らず、産業看護職(保健師、看護師)や心理学・カウンセリングの専門家などであっても実施できます。)において、これまで(つまり、健康診断後の保健指導等の健康相談では)接点がなかったタイプの社員と会うようになった、しかも、その相談内容が、仕事のやり方や職場の人間関係に対する不満(典型的には、“パワハラ”クレーム)、或いは、キャリアや処遇に関する不安であることが多かったそうです。そのため、医学や健康に関する専門性だけでは助言が難しかった、或いは、本来は人事労務部門が対処すべき事柄であるにもかかわらず、ストレスチェックが健康管理部門に丸投げされており、そもそも人事労務部門が関心を持っていないので、対応に苦慮した、といった感想です。

 しかしながら、労働安全衛生法(政策)は、かつての職業病予防を主たる目的とする「法規準拠型」から、時代とともに、私傷病(作業関連疾患)や心の健康への配慮も含むものに変化し、近年では、家庭生活とのバランスも視野に入れた「働き方改革」を含めた活動を、労使の参加・協力による「自主対応型」で進めるアプローチへと転換しました。産業看護職(保健師、看護師)には、このような事業場の「自主対応」を活性化させるファシリテイター的な役割が期待されている、と言われています。したがって、産業看護職(保健師、看護師)のところに集まる労働者の情報は、安全や健康に関する事柄にとどまらず、仕事のやり方や職場の人間関係、キャリアや処遇、さらには、家庭や個人生活にまで広く及ぶことは、法制度上も予定されていることなのです。

 ナイチンゲールは、次の言葉を残しているそうです。

 「看護とは、病気の人にサービスをするだけでなく、健康な人にもサービスをすることである。われわれは人々に、いかに生きるかを教えなければならない。」

 産業看護職(保健師、看護師)が労働者のすべての悩みを自力で解決しなければならない訳ではありません。それでも、関心を持って耳を傾けてもらえるだけで、人は救われることもあります。役立つ情報を提供したり、然るべき外部機関を紹介したりすることもできます。本人の同意を得た上で人事労務部門につなぐこともできます。同意が得られない場合であっても、産業医の健康相談に誘導したり、産業医から人事労務部門に対して抽象的な所感として伝えてもらったりすることも考えられます。さらには、統計処理したデータとして経営層に提言することもできますし、人事労務部門と協働して集団的な研修やポジティブな職場改善活動を展開することもできます。

 意欲ある産業看護職(保健師、看護師)は、日頃から、職場の全ての労働者と接する機会を持つように心掛け、労働者に関する正確な情報を得、信頼関係を構築しようとします。そうすることにより、産業看護職(保健師、看護師)は、労働者から支援を求められやすくなり、労働者にとって最も身近な相談相手、つまり「相棒」となることができるのです。

 中小企業であっても、協会けんぽの保健師等の支援を受ける他、例えば、数社共同で保健師や看護師を雇うといった方法でも、「健康経営」のファシリテイターとして産業看護職(保健師、看護師)を活用することができるのではないでしょうか。

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 本稿における見解は、筆者個人限りのものであり、所属する法律事務所を代表するものではないことをご承知いただければ幸いです。

【参考文献】
■「認知ミラーリング」による発達障害者支援について
http://cognitive-mirroring.org/ : JST 戦略的創造研究推進事業(CREST)「認知ミラーリング:認知過程の自己理解と社会的共有による発達障害者支援」(代表:長井志江、研究期間:H28.12-H34.3)のホームページ

■SCGカウンセリングセンターについて
氏橋隆幸著「組織内部資源の相談室のマネージャーとして」(渡邊忠ら編「いま、産業カウンセラーに求められる役割と実践力」ナカニシヤ出版・2013年、61頁以下)
[小島コメント:元センター長による同センターの設計思想と実践の報告です。働く人の心と企業の組織力学の狭間でカウンセリングがもたらし得る効用を徹底して追及するリアリズムに敬服しています。]

■産業看護職(保健師、看護師)について
池田智子編著「産業看護学」(講談社・保健の実践科学シリーズ・2016年)
[小島コメント:今、働く人と経営者の双方が本当に必要とする産業保健は何か、その中で産業看護職(保健師、看護師)が担うことができる役割の可能性について、看護の歴史・本質から紐解いた、“野心的な”「教科書」です。私も、産業保健の「法」と「倫理」の箇所の執筆を担当させていただきました。産業医や人事労務の方々にも十分に役立ち、楽しく読める内容だと思います。

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