税務訴訟 元札幌国税局長の脱税事件の本質

元札幌国税局長の脱税事件の本質

 元札幌国税局長の浜田某が、1997年から2000年の4年間で約7億数千万円の所得を隠し、所得税約2億5千万円を脱税した容疑で逮捕されたと報道されている。このような課税庁のOBが巨額の脱税をしたために最も困惑をしているのは、現在の課税庁の職員であろう。

 ほとんどの課税庁の職員は、人に嫌われる課税・徴収業務を執行することに誇りと信念を持っているからである。1人のOBの愚行が、多くの現職の職員に対する社会の視線を冷たくするのである。同情を禁じえない。その意味では、浜田某の今回の事件は、特殊事件のようにも見える。

 しかし、よく考えてみると、退職したノンキャリアの国税局長がなぜ、わずか4年間で7億数千万円という巨額の隠せるだけの所得があったのかが疑問になる筈である。企業がそれだけの必要性があるから払ったためであることは明らかである。課税実務に課税庁のOBが必要な事情があると考えないと、今回の脱税事件の本質は理解できない。

 仮に、課税実務が租税法律主義に基づく、課税基準が明確で、透明性の高いものであれば、企業等の納税者は課税庁のOBに顧問料を支払う必要がない。企業等の予測通りの課税であるから、納税者はOBがいなくても不利益を受けなくて済むからである。

 課税庁のOB、それも、現職の課税庁の職員に影響力をもつと見られる者に、多くの企業が顧問の要請をするのは、力のあるOBを持つことが、納税者に利益になったり、安心だったりするからである。それは、反面からすれば、租税法律主義が守られていないからである。つまり、現在の課税実務は、納税者の予測可能性を重視しない。課税の必要性のみが重視されている。

 それが通達万能主義として現れている。通達は租税に関する法令について課税関係の当事者の一方に過ぎない課税庁の解釈に過ぎないのに、課税実務ではこれが唯一の法令と同じ重さを持つ。これ以外の解釈は課税実務では事実上封じられている。

 その最大の原因は、裁判所が租税法律主義の立場を放棄し、通達中心主義の実務をそのまま容認しているからである。裁判実務上は、通達が唯一の法令であるかのように考えている裁判官が多いのも確かである。法令の解釈が通達の1つしか認めないのであるから、課税実務を暗黒の国家社会主義が支配してきたのは、隠しようのない事実である。この実務が、今回の浜田事件を生み出す源になったのである。

 つい最近に、租税法律主義の立場に立って税務訴訟を運営する裁判所が現れた。私個人は、これを奇跡だと真実思って感動している。裁判官にも、社会の実相を知り、社会正義・資本主義の立場で裁判する勇気のある方がいたのである。このことからすると、日本の将来は暗くない。司法が変われば、課税実務も変わるからである。しかも、司法には、現に、人材がいる。

 浜田事件は、課税実務が通達行政を中心として、課税庁職員の裁量で行われてきたことが本質的原因である。裁量で課税が行われる以上は、担当官の主観で運用が決まるから、結局、課税実務は担当官との話し合いが中心となる。つまり、担当官とのネゴが課税実務に不可欠になる。そのため、担当官と旨くネゴできる人脈を持った課税庁のOBが貴重になるのである。

 浜田某が約100社の顧問を持てたのは、浜田某に現在の課税庁の人脈に対する影響力があると企業等が考えたからである。このことは、企業等の納税者も現状の課税実務が課税庁のOBがいないと納税で困ると考えている事を示す。つまり、課税実務はネゴが社会常識なのである。この社会常識は裁判所の支持で出来上がっているが、これを問題にしない限り、第2、第3の浜田事件は起きる。ここに浜田事件の本質がある。浜田事件を浜田個人の特殊な事件と考えてはならない。
(文責 鳥飼重和)

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