経営者に必須の法務・財務 経営判断に関する判例法

 前回までに、朝日新聞社株主代表訴訟事件の事実の概要及び大阪地裁の判例を述べた。この事件における大阪地裁の判断は正当であり、このことによって経営者はグループ経営における経営判断を安心してできる。公開企業に関する経営判断の適法性をめぐる株主代表訴訟事件においては、判例は一貫して取締役の経営判断の裁量の範囲を広く認め、被告取締役を救済している。このことから、日本においても、判例法として「経営判断の原則」が確立していると断定してよいのではなかろうか。
 経営判断の原則は、日本においては、取締役のなす経営判断には広い裁量が認められ、結果的に会社に損害を与えても取締役には法的責任が生じない、という考え方である。経営判断は通常リスクを伴うものであり、したがっては経営判断の結果としてリスクが顕在化することは、取締役は予見が可能だったと言えないこともない。その意味では、経営判断の結果、会社に損害が生じた場合に予見可能性がなかったということには無理があるかもしれない。考えようによっては、ここには法律的意味での過失的要素はあるともいえる。
 しかし、取締役として最善を尽くして経営判断をしたのに法的に責任を負担させられたのでは、経営判断に萎縮を生じてしまう。ことに自由競争における経営判断は、競争会社との差別化を図るために従来の経営常識と異なる判断も許されてよい。このような異端ともいうべき経営判断を認めるには、取締役の経営判断を広く適法と認め、経営判断の萎縮を防止しなければならない。そのために、経営判断について、取締役に広い裁量権を与え、その裁量権の範囲内での経営判断は適法であると考える他ない。このような取締役に広い裁量の枠があることを認め、その枠付けを行うのが経営判断の原則なのである。
 では判例上、経営判断の原則を枠付けする要件は何であろうか。この点について、中村直人弁護士は、判例を分析された上で、次の四つを経営判断の原則の適用を受けるための要件とされている(久保利英明・中村直人・菊池伸『取締役の責任-代表訴訟時代のリスク管理』商事法務研究会・103頁以下)。
 [1] 具体的法令違反がないこと
 [2] 会社のため
 [3] 著しく不合理でないこと
 [4] 十分な情報
 私も、中村弁護士の見解に賛成である。この点について、簡単に説明したい。
 [1]の具体的法令違反がないことという要件は当然である。経営判断に商法違反とか軽視できない刑罰法規違反があれば、そこには取締役としての法令遵守義務違反があり、取締役の法的責任が生じるからである。過去の裁判例でも、公開会社の取締役に具体的法令違反があった場合には、被告取締役は、ほとんど敗訴か全面敗訴の内容となる訴訟上の和解をしている。三井鉱山事件、片倉工業事件、ハザマ事件、日本航空電子工業事件、高島屋事件、味の素事件等がその例である。
 [2]の会社のためにという要件も必要である。取締役は会社との委任契約によって、会社の最大利益に尽力すべき義務を負う。このため取締役は、会社の利益のために経営判断しなくてはならない。仮にも、会社の利益を害するために行為すれば、取締役の義務違反となる。したがって、会社の利益と自己又は第三者の利益が対立する場合には、取締役の義務違反の可能性を生じるから、ことさら取締役は、会社の利益のために行為したことを明確にすることが大切となる。
 [3]の著しく不合理でないこととは経営判断の内容に関する要件である。経営判断の内容が少しくらい不合理でも、この要件はクリアできる。つまり、経営判断は少しくらい常識を外れていても構わないのである。過去の経験からすぐれた経営判断は、その当時の常識と異なっていることが多いからである。経営者の中には取締役の過半数が賛同するような経営判断は平凡すぎて大きな成果を上げられないと公言する方もいる。このように経営判断には、脱常識的な色彩を尊ぶべきであるから不合理の程度が少々あるくらいで違法とはいえない。結局、不合理の程度が極めて大きく、著しくなった時に違法と判断されるのである。
 社会常識を基底とせざるを得ない法律論としては、著しく不合理の経営判断を違法と断定する以外にない。しかし、経済的には、この著しさの程度が大きくなればなるほど、逆にいえば、社会常識を遥かに逸脱していればいるほど、すぐれた経営成果を上げる場合がないとはいえない。
 アラビア石油を創業した山下太郎氏の経営判断などがその典型例である。この経営判断は、失敗すれば著しく不合理なものとして違法判断を受ける可能性が高い。しかし、大成功する可能性を秘めていることを考えると、そういう大胆な経営判断を萎縮させるべきではなく、むしろ経営判断の内容に関する適法性の判断は極めて慎重になされるべきであり、軽々に著しく不合理と判断すべきではない。
 経営判断の多様性を突きつめてゆくと、経営判断の内容について、むやみに社会常識を持ち込むことはいかがなものであろうか。私見を言わせていただければ、裁判所が経営判断の適法性を判断するに際しては、原則的に経営判断の内容を審査せず、[1]、[2]及び[4]の要件のみを審査すべきではないか。換言すれば、中村直人弁護士も指摘しているように取締役の経営判断の適法性の核心は、取締役の会社に対する誠実性の態度の問題として捉えるべきではないかということである。
 [4]の十分な情報という要件は当然であろう。経営判断は神の啓示で行うのではなく、適切な資料を基礎にした個人的判断だからである。この要件も、経営の実相とは大きく異なる場合があるようにも思われる。適切な資料に基づく合理的精神作用としての経営判断という発想自体、現実のすぐれた経営判断と異なるフィクションにすぎないかもしれない。すぐれた経営判断は、意外にも、直感ということの要素が大きいのかもしれない。しかし、西洋合理主義に基づく裁判制度の制約からは、やはり、経営判断も判断である以上、相当の資料を基礎にすべきことが要請される他ない。
 いずれにしても、経営判断を法的枠組みの中で全て評価し尽くすのには無理がある。我々法律家はそのことに思いを致し、謙虚な態度で経営判断を受け止めるべきであろう。
(文責 鳥飼重和)
株式会社バンガード社 バンガード
平成11年12月号「株主代表訴訟の潮流」より転載

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鳥飼 重和

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